脳内披露宴

伊佐爾波の脳内、覗いてみたくない?

喝采は産声となって

 もうどれくらい揺られているだろうか。舟はある意味では無軌道に、またある意味では幾年もかけて築かれた軌道どおりに、私を運んでいる。なんのために生を受け、なんのために命の川を下るのか。これは人類というもの全てに課せられた宿命的な苦悩であろうと解釈しているが、しかし私にとっては一等大事な悩みなのだ。なぜならば、そこに意味がないからである。

 創作物は創作者の恣意を受けて生まれるものだ。だとすれば、生物を神の創作物とする教えは我々の存在にどのような恣意を見出しているのだろう。

 Whim of God――神のいたずら

 そう言い切ってしまうのは簡単だ。不条理に枷を着せて合理の額縁を作るのは、いつの時代でも人類の常套手段である。ここ日本でも、それは当然のように存在する。

 あるときは無宗教、あるときは八百万の神仏とその様態を変え続ける文化のなかにも、仏教・儒教の代表的な時代があった。例えば平安時代。男性や後見人の支援なくしては成り立たない女性の立場に、彼女らは諦めの姿勢を取ることで順応した。「源氏物語」に見られる「宿世思想」などは特に代表的なものだろう。

 そして今――といっても、私が体験している今と読者諸君のそれとでは大きな乖離がある。断定するのは、私が諸君にとって「むかしむかし」の人物だからにほかならない。改めて、今の時代においても、その思想・姿勢は地盤のように硬く居座っている。

 苦難には英雄の創造を。ならば英雄の存在意義は、人々を苦難から救うような文字通り英雄的行為を達成するためなのだろうか。

 これを肯定することも、否定することも、私にはできない。だが、それでも、肯定は諦念と地続きであるように思えて仕方がない。新都市ラ・デファンスから古の華の都パリまでが徒歩で一直線であるのと同じように、革命的思想と保守的思想は視点の角度を整えてみれば一直線上の事象なのかもしれない。

 ……失礼、内省的な思考ドライヴに没頭しすぎて語りを忘れていたようだ。ともかく、この私の心に浮き立つ波を端的に描写するならば、「どんぶらこ どんぶらこ」という具合なのだ。舟は竹林を抜け、氾濫原と呼ぶにはあまりにもちっぽけな平地に出た。一人の老婆が、皺だらけの顔をさらに変形させながら、畏怖と驚嘆の目線をこちらに向けてくる。洗濯板を投げ出し、川に身を投じて舟を拾い上げた老婆は、今一度、私の舟をまじまじと見つめて言うのだった。

「なんと大きな桃なのかしら。おじいさんへの土産にしましょう」

 私が産声をあげるのももう間近だろう。この極東の島国の、人々の憂いを、嘆きを、悩みを、彼らの声を、私の声にするときが来た。私は今、生まれるのだ。